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2009年2月27日金曜日

Syllabus: シラバスは予定表?それとも契約書?

*写真は「Art493:美術教育理論&実践1(K−8th:幼稚園から中学2年)」のクラスの生徒達。昨年2008年秋学期の最後の授業の日。個人発表の後、クラスルームで軽く食事会。その後「最後の晩餐」ならぬ「最後のお昼」を皆で。このクラスは小学校の先生になる学生のためのクラス。美術を通しての教育ということですね。「There is art in all subjects! (すべての学科に美術は関連している!)」


シラバスは通常コースの概要説明(目的、内容、スケジュールなど)という風にとらえられていると思う。もちろんそれは正しい。ただ米国では私たち大学教員にとって、シラバスはそれ以上、学生と私たちとの間の契約書のようなものでもある。それはどういうことかというと、シラバスにコースの目的&条件を示すことにより、このような内容&条件の下で、授業を構成し、進行していくので、君たちもそれに殉じて勉学に励むようにというお達しというわけである。

当然学期始まって最初の一日は、このシラバスの説明に時間を費やすことになる。そしてこのシラバスは、学生からクレームがきたりと何かあった時、私たち教員を守ってくれる大切な書類に変身する。そういうわけで、このシラバスの中には、コースの目的や内容の他に、学生の取るべき態度(こういう態度をとったらクラスから退却してもらうこともありうるからね〜)とか、成績の付け方の補足的条件(無断遅刻や早退が続いた場合は、自動的に成績は一ランク落ちることになるからね〜)という風に結構細かく記載されることになる。

当然成績も数値化してきちんと記録することにしている。また昨今のテクノは米国のアカデミアでは大学のシステムにしっかり反映していて、うちの大学CSU-Chico (California State University, Chico) では、Blackboard WebCT  (Web for Classroom Teaching) VISTAというオンラインプログラムを採用していて、コースごとに自動的にプログラムが立ち上がるので、このVISTAオンラインプログラム上でも常に授業予定や各生徒の成績が見れるように更新している。

こういうと学生中心のオープンなシステムのようにも見えますが(もちろんそれが本来の目的のはずですが)、私たち教員にとっては、すべてを透明にまたきちんと記録することにより、何かあった時(例えば学生が成績に文句をいってきた時)に対応するための防衛手段に早変わりします。つまり「ほれ、これこれこういうことで、キミの成績はこうなったの。(どうだ!)」という風にですね。(*こういうとなんか身もふたもない感じで、ちょっと情けない感じがしますが、悲しい事に事実です。)

日本ではまだそれほど学生は強くおしてこないのではないかと思いますが(つまり先生にまだ権威があるのではないかと、、、)、米国、特にカリフォルニアでは学生が「Take for advantage (つまり先生の値踏みをして、この先生ならこれくらいいったらどうにかしてくれるかもというような)」で一言いってくる学生が多いので、そのために万全の準備態勢で待ち受けていなくてはいけないのですね。

赴任当時は強気の学生の対応にかなり苦労しましたが、さすがに10年。心臓に立派な毛が生えつつあります。(下記私のシラバスです。ご参考まで。)*ちなみに上記の写真とこの記事とは直接関係ありません(皆良い生徒ばかりでした ^_^!)

米国にて大学教員公募&選抜方法:選ぶの?選ばれるの? (Search for a New Faculty, 2/26/09)

3月、日本は受験シーズンも一息ついて、卒業式シーズンを迎えているのではないだろうか?ここ米国では、日本を含むアジア的な一斉に受験というようなものが存在しないので、大学の教員がそういったプロセスにかり出されるということはまずない。大学院は別として、学部学生の入学/転出入に関しては、Admission Office がすべて管理してくれるので、そういった意味では楽である。

しかし、この3月という季節は、大学院学生の申請受付締め切りや、(定年等で空きが出たり、追加定員のための)新しい大学教員(Tenur Faculty)の公募が大詰めを迎える季節でもある。特に大学教員新規採用に関しては、公募に集まった多くの書類の中から最も妥当と思う候補者を絞りこんでいき、その中から最終選考に残った数名(通常2−3名)を大学キャンパスに招待し、最後の選考段階に入るのがこの3月頃でもある。

今年は、世界的経済不況の大幅予算カットの中、幸いな事に芸術学部で新規採用予算枠をひとつ勝ち取ることができ、現在インテリアデザインの助教授レベルの採用プロセスが進んでいる。通常二日間にわたって行われる採用選考プロセス(研究発表、専門分野の模試授業、質疑応答面接等々)にわたしたち現職組も参加するため、結構な時間をとられることになる。それでも新しい人員が増えるといううれしいイベントなので、他の会議等に比べて、参加率は極めて高い。現在進行中のものも、今週末には最後の一人が会議で決定し、今度はその最終候補者と大学側との交渉になり、契約ということになる。大枠のサラリー体系(年俸)はあるものの、日本と異なり、一律一緒ではなく、経験やまた競争によって(例えば他の大学からも誘われていたりする場合)、サラリー(年俸)が上下したり、また仕事の条件(例えば教えるコースを一つ減らして授業を担当等々)も交渉次第ということになる。つまり私たちも候補者を選んでいるのだけれど、候補者側も他の大学と比較しながらできるだけ良い条件の大学を選んでいるというわけですね。

(もちろん選択のチョイスが多いかどうかはその候補者によるのだけれど、、、私の場合はどうっだったかというと、チョイス以前の問題で、そういうかけひきをするということを全く知らなかったの。他の大学3校から引きがあったのに、交渉自体をせずに、研究に時間を確保してほしいという口約束はしたものの、言われるままの条件で契約してしまった。う〜ん、無知と言えばそうなんだけど、当時はまさか米国で職を得るなんで予想だにしてなかったので、まあこうやってアメリカで生き残っているだけでも恩の時かなあ。そう思う事にしよう ^_^。。。)

さてそもそも公募用紙の中身はどうかというと、内容は少し大学によって、またどの専門のどの分野の人材を特に必要としているかで、変わってくるものの、だいたいの構成は大学に限らず、共通のものが多い。下記、2006年度実際に美術教育者の募集をした時の公募用紙である。


この中で、たぶん日本と大きく異なる点は、応募者の「Qualification (資格条件)」のところではないかと思う。

Qualifications: Doctorate degree in Art or Art Education (Ed.D. or Ph.D., ABD may be considered) with studio background and a minimum of 3 years of teaching in public schools or similar experiences are required. Teaching experience in secondary classroom or interdisciplinary work with innovative classroom technology preferred.

日本でよく見られる年齢制限等は全くないものの、博士号(教育博士&哲学博士、もしくはABDと言われる現在博士課程にいて、近い将来取得することになっている)を必ず持っていることと、そして教育関連現場(教職とは限らない場合もある)での経験が少なくとも3年はあることというのが、一般的な条件である。つまり「理論&実践」の二つを持っていることが求められる。また応募時の年齢にかかわらず、皆助教授からスタートすることになる。(というか、だいたい博士課程に入るにも、現場での経験が3年以上という風に設定している大学がほとんどなので、卒業して、大学で職を得る時には結構みんないい年である。この点ちょっとうれしい ^_^)

余談だが、国土の大きな米国では、出身校にもどって職を得ることはほとんどない。これは学閥を作らないという倫理上の防御策でもあろうが、アカデミックのプールを豊かにして、活性化させるためということなんだと思う。

ついでにもう一つ。公募の際、年齢や性(男女)等、差別につながる条件を示してはいけないことになっている。人間は基本的に無意識に差別&偏見意識を持ってしまう存在なので、こういった無意識の差別や偏見につながる行為&言葉は極力排除するという倫理である。非常に西洋的発想だと思うが、私はもちろん賛成である。(一度日本で美術教育の公募を見たことがあるが、年齢制限があってびっくりした。)

次は、採用後の話し、どうやって私たちは査定され、准教授(テニアを取る)に、そして教授になるのかのお話しを。

2009年2月26日木曜日

海のスペリングビーコンテスト (Spelling Bee Contest, 2/26/09)



昨日海の学校へスペリングビー(Spelling Bee Contest)を見に行ってきた。これは英語のスペル(単語)を間違いなく言えるかどうかのコンテスト。数年前「アキーラ&ビー(Akeelah and the Bee)」という映画 (2006)で、アフロアメリカン(黒人)の11歳の女の子アキーラが、貧しい環境の中、苦難を乗り越えて勉強し、国のコンテストに優勝。黒人社会のヒロインになるというサクセスストーリを見た人もいるかと思いますが、それの一番最初の関門、学校ごとの選抜コンテスト。この優勝者と準優勝者は、市の大会に参加、そして、郡、州、最終的に国のコンテストという風に進むことになるとのこと。

海の通う学校では、4、5、6年生の3学年で競いあうらしい。海は5年生のクラスの中から代表で選ばれての出場。私は3日前に海の出場を知らされて、大学の授業の合間に、かけつけることにした。(昨年4年生の時も出場を打診されたのに、度胸のない息子は辞退。その年のコンテストの様子を応援席から見て、これなら〜と今回は思っての出場みたい。昨年そういうことがあったことなど、母でありながら全然、知りませんでした。今回のことも三日前に知ったというのもどうかと思うけど。そういやジョンと二人でスペルの練習をしてたな〜)

壇上には学校選抜に出場する20名の子ども達が並び、それを応援するクラスのこどもたちで熱気むんむん。ステージの横には、地域からコンテストの専門家が二人。そして校長先生が、ランダムに選択された大会用単語帳を持って、ひとつひとつ読み上げていく。正しくスペルを言えた場合、「Correct (正解)」と伝えられ、元の自分の席に。間違えた子には「Incorrect (不正解)」ということが伝えられ、席には戻らず、そのままステージを降りることに。通常だったら間違えないような単語でも、緊張であがっているのか、一人一人とこどもたちが壇上から降りていく、読まれる単語も次第に難しいスペルのものになり、5巡目を超えた頃には空席が目立つようになる。

見ている方もどきどき。海がスペルを言うときには、私の心臓はパクパク。自分がステージに立っている方がよっぽど楽。結果は、12巡目の単語「microcosm (小宇宙)」を「microcosmo」と「o」を余計につけてしまい「Incorrect(不正解)」となり敗退。ベスト5という成績。結局昨年の優勝者が今年も勝利し、市の大会に出る事になったようです。

海君ご苦労様。よくがんばりました。悔しいという気持ちがある内に、来年に向けてパパと今から語彙力を高めるようがんばってね(こと英単語に関しては、私はヘルプできないからね)!」まっそのことは君がよく知ってるか、、、笑)

発音とスペルがシステマティックに一致しない英語(米語)ならではのコンテストという感じ。たかがスペルコンテストと思いきや。全米から地域の段階ごとのコンテストを勝ち抜き、最終のコンテストである National Bee Contest は、人文系のコンテストが少ないアメリカではテレビ中継が出るほどの人気のコンテストだとか。その頂点に立つ優勝者は最高にスマートであるという証明みたいなもので、あちこちの大学から奨学金つきて招待されるのだそうです。(特に名門となると州立や私立にかかわらず大学の学費が半端でなく高い米国では、これは本当に大きなご褒美ですね、きっと。)

2009年2月25日水曜日

けんか両成敗?(2/25/09)

家に帰るとジョンが海が学校から *detention をもらってしょげていると伝えてきた。(*直訳すると「(何か悪い事をしての)居残り」の意だが、通常まず連絡ノートに注意勧告の連絡が入り、それに親が確認済みサインをする。)

事情を聞くと、なんでもクラスの男の子が、海に侮辱するような言葉をしつこくなげかけたらしい。それに対して、海がその子の手を引っ掻いた、とまあ学校ではよくある話のよう。たいしたことない、いつもの男の子同士のやりとりのはずだったが、その子が急に泣き出して先生に告げ口をして、、、海がおしかりを受けることになったということらしい。

「で、、、二人とも呼ばれて注意を受けたのでしょう?」と私。「いや、海だけ注意されたみたいだけど」とジョン。「それで、連絡帳にあなたは『確かにうちの息子が悪いので反省します。』と納得のサインをしてしまったの?」と再び私。「事を大きくしたくないし、そうたいしたことでもないから、、、」とジョン。「ふーん。それはちょっと不公平だわね。確かに引っ掻いたのは海が悪いけど、その子が始めなれれば、海も引っ掻くことはなかったわけでしょ。」と私。こんなささいなやりとりを少しした後、しょげてる海のもとへ。

「海君、確かにいくら腹がたったからとは言え、引っ掻くのはよくなかったわね。もし次ににたような事があっても、気にしないで無視するように。仕返しは仕返しを生むだけだからね。短気は損気よ。」とまあ、こんな風に母親として一応注意したわけ。ここでやめときゃよかったんだけど、続きがある。

「オッケー海君。お母さんとしての注意はここで終わり、次は君の友達としての言葉だからね。」「Good job, honey! (よくやったわ!)」と一言。その瞬間。息子の顔がはにかみながら、バラ色に一瞬輝きましたね。

それを横で聞いていた主人は当然私の言葉にあきれ顔。後で「君は母親として息子に暴力をふるったことを援護するつもりなの」とおしかりを受けることになるのですが、、、

まあ私としては、ガタイの大きなアメリカ社会で、小柄な息子が、ただいじめられて引き下がるような子ではなかったということに、ちょっとうれしかったの。それでちょっと励ましたかったの。

だいたい、こういうことはけんか両成敗でしょ。言葉の暴力はフィジカルな暴力と同等、いやそれ以上に陰惨だと思うのよね。教師が二人を呼んで、二人に注意するのが筋ってもんだ。それを一方だけというのは、私としてはやはりちょっとね、、、

その子も海に引っ掻かれたことによって、言葉の暴力が相手を怒らせる武器になるということを、痛みで知ったわけだし、彼にとってもよかったのだと思う事にした。(今だに、考え方の相違ということで、ジョンは私の言葉に納得してないのだけど、、、)

たぶん学校ではよくあるささいな出来事。でもちょっといろいろ考えてしまいました。


如月春遠からじ in Chico (2/23&24/09)








海君はパパの指導を受けつつ、部屋の大掃除。
春遠からじ(笑)。

日曜(2/22)には大学の生物学部主催のグリーンハウスツアー (*Click here to link to photo/slideshow site ^_^) に。


大雨の中、 十数人が集まって、二つのグリーンハウスをガイド付きで2時間半をかけて回り ました。外  は 冬でもグリーンハウスの中は既に春満開。ガイドでテクニシャンの ティムのそれぞれの植 物にまつわる裏話に春を感じまし た。 帰る頃には、雨もあがり 、さて今度はうちの回りの春を探しに。家の裏のお隣のフェンスの横には木瓜(ぼけ)の花が満開。裏庭(北側)の山茶花はまだちらほらというところだけれど、東の通り側の色とりどりの山茶花は満開で、通りの上には既に花びらの絨毯。紫木蓮(しもくれん)には既につぼみが。雨期 (11月〜3月初旬)が終われば、あっと言う間に春 を越して、チコの街は、すぐに夏の香りの季節になりま す。

チコ市ユースサッカー春期スタート (Chico Youth Soccer League, 2/21/09)


2月の初旬からチコ市ではユースのサッカーリーグ(男女別)が始まる。ユースサッカーなんていうと、すごいみたいだけど、全然そうではなくて、春と秋の2期生で募集、申し込みさえすれば誰でも参加できるというもの。年は5歳から14歳まで。9歳までは学年ごとで、10&11歳、そして12−14歳(中学)の7つの年齢ごとのレベルの分かれている。年ごとに5〜7チーム(春は少なくて、秋期の方が多くなりがち)があり、総当たりで戦うことになる。

毎回くじでチームが決まるので、いつも同じチーム同じメンバーというわけではないし、市の方で力が均等になるように、どうもメンバーを振り分けているらしい。(市のサッカー協会の配慮にもかかわらず、差が出るときには差はでるものみたいで、強いチームは連勝で、負けるチームはずっとということもなきにしもあらず >_<,,,)

チームのメンバーが決まったところで、チームの中の子の親がボランティアでコーチをやり、毎週一回くらいの練習というのんきなもので、すぐに毎土曜日に試合という流れである。(親が持ち回りで、ハーフタイムの差し入れなどを当番。)

チコ市はとてもめぐまれていて、大きなグランド施設があり、天然芝で15場ほどのサッカーグランド(ただしこども用サッカーのサイズ:9人制サッカー)がとれる広大な広さ。

広大な天然芝のサッカーコートの横に思い思いに簡易チェアーを置き、空行く雲を見ながらかこどもたちの活躍に一喜一憂の歓声をあげる至福の時でもある。応援というより、日頃のストレスを大声で解消というのが、私の場合はあたっているかもしれない (^_^)。どんなに仕事がたまっていても、締め切りが明日に迫ろうとも、これだけは外せない。(私にとって、息子に母親らしきことをしてあげれる数少ないイベントの一つでもあるのだもの。)

2009年2月23日月曜日

2005年夏休み:海君の勲章

  
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うわーん >_<,,, という大きな声が聞こえてきた。友人宅で私たちのお別れパーティも兼ねて、バーベキューパーティをしていた夏の夜。心配そうに見守る男の子の横でびっくりお目めの海君が大泣きしている。なんだなんだと、聞いてみても要領を得ない英語まじりの日本語に、どうも家の中で遊んでいる途中のけがであることはわかった。たんすに登ろうとして落っこちてあごをきったらしい。(後になって、友達とふざけていて、タンス登りの途中、その足を下から引っ張られて、、、、後は想像のごとく、ずりずりと落ちてしまったということが判明。) 

まあ男の子ならよくあることで、とりあえず、近くの救急病院へ。本人は出る血の量に驚いて治療中もヒステリックに泣き続けている。その時の勲章がこれ。7針も縫いましたね。 

この時、もちろん私たちは日本の健康保険を持ってないわけで、実費を払ったのだけど、救急とその後の2−3回の通院も入れて、確か2万円超えなかったのではないかと記憶している。もちろんその時は急な現金出費で痛かったのだけど、アメリカと比べて、保険なしの救急の対価がかなり安いとも思いました。これがアメリカで、保険がなかったらかなりかかる。特に救急はとんでもない額を請求されることが常なので、10万とかでは済まなかったのではないかしら。これを機会にアメリカにはない日本の健康保険のありがたみを失って初めて痛感しましたね。(ちなみにアメリカでは大手企業や大学のようなところは別として、通常保険は個人で入るもの。ということで約50%は今でも保険なしの生活とか。いろいろ問題はあるとはいえ、国の保険制度があるということは、本当に幸せな事だと思う。)

実は、アメリカでは、ありがたいことに勤務先の大学側が保険料をカバーしてくれているので、この時の領収書をアメリカに帰って、診断書とともに提出すれば、実は支払った額は返ってくることになっていたのですが、いいかげんな母である私は、たくさんあるレシートに紛れて、発見できず。結局返ってきませんでした。というより、申請すらできなかったのだっけ。整理不足の自分自身が悪いので誰もうらめませんでした。う〜反省 >_<,,,

2009年2月21日土曜日

2008新年&三回忌in奄美

父が病に倒れてからは、なるべく年末年始は奄美に帰郷するようにしていた。それは父が2006年春に亡くなった後も続いていて、というより、むしろお正月を母一人で過ごさせるのもかわいそうで、サンフランシスコー成田(東京で一泊)、羽田ー奄美と、私自身の家族をチコの街に残し、一人で日本への帰国の途につくのが、今現在も、毎年年末の恒例行事になりつつある。(アメリカはクリスマスは重要だが、ニューイヤーイブのカウントダウンで年越しを祝った後は、通常の生活とほとんど変わりないし、ほとんどの場合、仕事は1/2からスタートするので、家族的にはそれほど影響ないだろう、と自分なりに判断してのことだけど、うちの家族は正月は私がいないものとあきらめ半分で納得しているのかもしれない。)

正直弟達家族の入る桑名か名古屋に行って、それぞれの家族や孫達と一緒にお正月を過ごした方がよっぽど楽しいだろうにと思うのだが、ことはそう単純ではないらしい。三回忌が終わるまでは奄美で、というのが母の口癖。母の気持ちを尊重して、私たち兄弟(私と弟二人)、どちらかが正月に母のもとへ急ぐ事になる。

というわけで、この年2007年も大晦日に奄美入りする慌ただしさで、東京で注文しておいたお節をピックして、飛行機に飛びのる予定が、まにあわず、さて今年は自分で久しぶりに作ろうかなあと思って、大晦日にスーパーに行く事に。なんとあるある。お節ために、小さくうまくまとめられた一品料理の数々。これなら買った物を詰めても立派なおせちが完成ではないの。

と、2008年のお正月は母と私と父の写真と三人一緒に手抜きのおせち料理でのお正月となりました。が、結構立派。「やっぱり料理は配置次第で、おいしく見えるのよね〜」と自画自賛。お吸い物と奄美の豚骨(とんこつ)だけは自分で作って、後はほとんど出来合いで済ませてしまいました。おだてると木に登る娘の性格を知り尽くしている母は、「やっぱりあなたは本当に料理が上手ね〜」と。これが料理と言えるのなら、世の中のほとんどの人は料理がうまいに違いない。とはいえ、やはり母(身内)にほめられるのは一番うれしいものですね。この後、うちのお節の方法はこういう形になってしまうだけど、まだこの時は、母におだてられた余韻が残っていて、来年はしっかり作るぞ〜と思っていたのでした。

さて、年明けて、この2008年は父の三回忌(実際には2年目)。ということで、三兄弟家族が3月に久しぶりに全員奄美で集まりました。にぎやかなことが好きな人だったから、小さいながらも家族親戚が集まっての祝いの席に喜んでくれたのではないかと思っているのですが。さてどうだったでしょう。お父さん。
(Click the underline above to see these images!)

2009年2月20日金曜日

2008新年会in奄美:大高バスケのメンバーと (Jan 06, '08)

久々に高校時代のバスケットのメンバー(たつひで、おちろう、しゅう、& カー坊」で奄美で新年会を開いた。集まった場所は日本一飲み屋の人口密度が高いという奄美の「屋仁川通り(通称「やんご」)」にある、でバスケ女子メンバーの一人ますみのお店「やちゃぼう」。けっこういい年なんだけど、さすがに卒業してからもバスケを続けたいたという我が男子は今もけっこう良いシェイプをしていました(約一人を除いて)。

この時私たちは半世紀うん年を迎えるにあたって、12月に例年ハワイで開催される「ホノルルマラソン」にバスケのメンバーで参加しようと、勢いに乗っていたのだけど。結果は諸事情あり、実際に走ったのは私とだんなのジョンだけでした。でもあちこちでマラソンブームで奄美でも09年2月には奄美市で第一回奄美マラソンもスタートするとか。チャンスは一杯よ。それにしても「男子(だんし)女子(じょし)」なんて呼び方若いね〜(笑)。

*新年会の他の写真はここをクリック!(写真サイトの右肩「Slideshow」をさらにクリックするとスライドショーが始まります。)

2009年2月16日月曜日

2005夏 in 奄美

2005年の夏を私は忘れない。少女マンガ展示会準備で奔走していた夏。父と過ごした最後の夏(翌年2006年3月他界)。ジョンが初めて蛇三線(じゃみせん)を弾いた夏。母の年の祝い(72歳)を兄弟三家族全員で祝えた夏。

そして子どもの頃と同じように「赤しょうびん」がキューキュルキュルと泣いていた2005年の夏。

奄美にて:舟こぎ競争2008年夏(7/23/08)

奄美では例年8月の最初の週末に奄美祭りが開催される。それにともなって舟こぎ競争も。聞くところによるとすごい数の参加(数百)があり、予選を勝ち抜いたグループ(何艘が失念 ?)のみ、本戦に出れるのだそう。いやー奄美を離れて30年。知らない間に大きなイベントになっていたのですね。
朝仁グループで参加される、お隣の陣内さんのお誘いを受けて、今日はなんと練習を見に。そしてジョンは練習にも参加。私と海はもちろんらくちんでのっけてもらうだけ。その時の夕日が見事でした。海で見る男衆はどうしてかっこよく見えるのでしょうか(笑)。

*朝仁での練習風景はここをクリック!(写真サイトの右肩「Slideshow」をクリックするとスライドショーがスタートします。)

2009年2月15日日曜日

奄美にて:2008年夏エンジョイ!!!


2008夏、海は名小での生活を本当にエンジョイしました。私のsabbatical(研究休暇)にあわせて、3月の後半から日本入り。そして4月の新学期から5年生のクラス(5年2組)に1学期間、入れてもらいました。例年より長い奄美滞在に、水泳クラブにも参加して、5月の連休明けより、毎日がんばって泳いでいました。そのおかげで、犬かき程度のレベルだったのが、水泳大会にも出れるくらいに。もちろん毎年練習して大会に参加する他の子ども達に比べると、まだまだですが、それでも完走できるようになって、親としてはうれしい限り。忍耐強く指導してくださったコーチに感謝です。またここには、5年生の水泳大会や大浜海岸での5年生合同でのピクニックの写真も一緒。写真から楽しそうな笑い声が聞こえてきそう。こどもの笑顔にホッとしますね。(*写真サイトはここをクリック!サイトの右肩「Slideshow」をさらにクリックするとスライドショーがスタートします。)


奄美にて:名小5年2組「サラダを一緒に作ろうよ!」(6/2008)


今日は5年2組の家庭科の授業でサラダ作り(他の写真はここをクリックしてね!)

お父さんお母さんも参加してきましたよ。見てみて!こんなにきれいに盛り付けできるよ!本当に上手(^_^)。見事なアートのセンスに感激しました。ほんとよ。

奄美:名小水泳部プールそうじ!(5/3/08)

プール掃除の様子はここをクリック!
(クリック後、写真サイトの右肩「Slideshow」をさらにクリックするとスライドショーが始まりますよ。)

たくさんあるクラブの中で、いろいろ迷ったけど、海は水泳部でがんばることにしました 。最初は犬かきレベル(本人はそう言われるのはキライみたいだけど、、、)、コーチの 忍耐強い指導のおかげと、そして海も一度もさlぼらず、がんばったものね、1学期が終 わるころには、水泳大会にも出れるようになりました。いいかげんなお母さんの言葉「海 く〜ん。大変なら一回くらいお休みしたら〜。」に耳をかさず「いかなきゃ!」といつも かけだしてプールに向かった海君。よくがんばりました。花丸をあげます。

2009年2月6日金曜日

アマミーナプロジェクト2009年度新年会

(*クリックすると他の写真も見れます。さらにリンク頁の右上のSlideshowをクリックするとスライドショーがスタートします。)

奄美の良さを伝える「奄美ツアー」はここをクリック!

2009年度7月22日、奄美北部で見られる皆既日食。日本ではこの次に見られるのは約50年後とのこと。天文ファンなど世界から約2万人の人々が奄美に来島という試算も出ているとか。島はじまって以来の出来事に、どこをどうやるのか、実際にはまだまだあたふたあたふたのようです。とはいうものの、このチャンスを大いに利用して、島から世界へ向けて何か発信できるのでは?という動きが出ているのも事実。私たちもその一グループ。でもたぶん他と違うのは、大人中心ではなく、こどもから大人(お年寄り)までみんな一緒になって、何かを、それも一回限りのイベントしてではなく、未来につなげるための何かを、ということで「アマミーナプロジェクト」はスタートすることになりました。まずは新年会で思いを一つに、ということで集まったのがこの写真 (みんないい顔!^_^)。

2009年2月4日水曜日

Christmas in Honolulu (1/24&25/08)


ホノルルマラソンの後、1週間程過ごしたハワイ島からオアフはホノルルへ戻ってきました。そして、クリスマスの夜。食うぞ!ロブスター!翌日12/26にジョンと海はチコの街へ、そして私はいよいよ日本へ研究調査の旅へと別れ別れに。

大地の鼓動:Hawaii Island (Dec. 2008)


ホノルルマラソンの後、ハワイ島 (Click here to see other photos in Hawaii Island) で1週間を過す。もちろんキラウエア火山に行ってきました。(*「ハワイ島」をクリックすると他の写真集にリンクします ^_^!)

夜の漆黒の山闇の中、固まった溶岩の上を歩きながら、夜の闇に浮かび上がる噴火の流れ(15年以上も流れ続けているそうな)を見てきました。下記のビデオがそれです。遠くに吹き上がる溶岩が小さく赤く見えるいるはずなのですが、風の音しか聞こえないビデオになってしまいました。でもせっかくなので、そのまま載せておきます。記念です。(*The following is a video when we visited a night view of Lava flow in dark night >_<,,,,  although there is not much, but just a sound of wind.)


Culture Center in Honolulu, Hawaii (Dec.2008)


初めてのホノルルマラソン参加の数日後、カルチャーセンター (Culture Center)でハワイをはじめとするポリネシアの文化を堪能してきました。一人確か一番安いチケットでも$75程するのですが、マラソン参加者には$45のディスカウントクープンがもらえたので、一人$30で入場券、夕食、そして2時間のショーを堪能。さすがに5年前、初めていったときほどの感動はなかったけれど、それでも十分楽しめました。下のビデオはおなじみハワイのフラダンス、そしてトンガ村でのパフォーマンス。フラダンスは本当に優雅で日本でもファンが多いというのもうなづけます。トンガのダンスは私の島の血を熱くさせます。アフリカのリズミックな踊りもそう。根拠は全くないのだけれど、これはたぶん私の中に刻み込まれたDNAのせいだと思うのだけど。奄美の八月踊りや特に六調(ろくちょう)の太鼓の音を聞くとそわそわします。そういえば、亡くなった父もそうだったけ。(*センターには文化の異なる島ごとに村があり、それぞれのパフォーマンスが見れる。*他の写真は「カルチャーセンター」をクリック!)*Click the culture center to see other photos and the following videos are from the public events. One if Hula dance and one is a dance from Tonga.


2009年2月3日火曜日

竹宮さんそして山本順也氏(Tue., 1/19/09)

竹宮恵子さんへ少女マンガ展示会の作品を返却に鎌倉へ行った帰り、ヤマダさんと一緒に山本順也氏とお茶を。北米での少女マンガ展示会を準備していた頃(2004-5年)、なかなか作家さんとはすぐには会ってもらえないので、かつての編集の方々を通してアポをとるのが一番とヤマダさんに教えていただき、連絡をお願いしようとしていたのが、実はこの山本さん。残念ながらその頃体調をくずされていて、お会い出来ないままでいたのだか、くしくも今回お会い出来る事になった。

ご本人も鎌倉のすぐ近く逗子にお住まいとかで、わざわざ駅まで迎えにきていただいた。逗子マリーナ近くのデニーズでのお茶だったのだけど、日本をしばらく離れている間に、なんとデニーズがこじゃれたお店に進歩していました。鎌倉近辺だから特別かなと思ったけど、池袋もデニーズも似たような感じだったから、けっこう店全体で方向転換したのかなあと、勝手に思ったりして。さすがに20年も日本を離れて生活していると、かつて私が知ったイメージとはかなり違っているものが結構多いですね。

おっとまた話しが横道へ。もちろん山本さんからは少女マンガ編集時代のいろいろなお話しが聞けて面白かった。当時は少女マンガはマンガの中でも価値は認められていなくて、マンガ家の方々のみならず、編集者にも言葉にはいえないご苦労があったことと想像に難くない。今は昔と笑ってお話しされているが、道を作るというのは、やはり大変なことだ。そういった先人の方々のご苦労があって、今世界で少女マンガが花開き始めているのだと思う。 (下の写真は鎌倉の「光る海」。竹宮さんのお宅から、ヤマダさんと二人で坂をくだりながら、江の電の駅に向かったのだけれど、その時の海がキラキラして何ともいえず感激。二人でこの海を見れただけでも来たかいがあったねと、話したものです。)

Mr. Yoshida!今さんに念を送る日々 (Wed., 1/20/09)

今市子さんの作品返却のため、朝日新聞社コミック(朝日ソノラマ)の編集長、吉田さんにお会いした。背の高ーい、ひょうひょうとした感じの方なのだが、話しがまたひょうひょうとしてホントおもしろい。今さんに「作品はまだか〜」と念を送る日々を過ごされているそうな。窓をじっと眺めていると、他の編集の人に「また今さんに念を送っているのですか?」と言われるとのこと。また「いやー向こうも慣れたもので、『まだです。まだです。』と念を返してくるんだよね〜。」と真面目なお顔でおっしゃる。ヤマダさんと一緒に思わず笑ってしまいました。上はその今さんのオリジナル。もちろん「百鬼夜行抄」の律君。(そんなこと言われなくてもしっとるわい、と言われそうだけれど、念のため。)


左は「今出来上がったばかりの波津さんの原稿。せっかくなので、、、」と持って来てくださった。う、う、美しい。波津さんの作品も大好き。空気がぴーんと張りつめて、どこからか花の香りがしてきそうな、、、

話しももどして、今さ〜ん!もしネタに困ったら、奄美にいらしてくださいな。日本海とも太平洋の空気とも違う、東シナ海のねっとりとした湿度の高いプリミティブな風土で、いろいろありますよ。2009年は琉球王国の支配下から逃れてちょうど400年のち記念年。でもそれは同時に島津(薩摩)の支配下に入ったということ。薩摩の支配は多くの悲劇も生み出しているそうな。そのひとつが「人頭税(じんとうぜい)」。人の数だけ税を重くかけたそうで、間引きがさかんに行われたという史実もあります。また奄美では「まれびと」とは海のかなたから来る者で、また豊穣もたらします。しかし、、、この続きは奄美にいらしてからね。もっとありますよ(^_^)。

ネオンテトラ羽場プロジェクト(Wed., 1/20/09)

岡野さんの作品返却のため、ヤマダさんと一緒に事務所ネオンテトラへ。迎えてくださったのが、この羽場さんというマネージャー。岡野さんにはこの夏7/22/09、奄美での皆既日食イベントに併せての「アマミーナプロジェクト(少女マンガ特別三人展)」にご参加してくださることになっているので、その相談が実はメインの訪問だったのですが、、、いやー私やヤマダさん、既に既婚組は、フレッシュな恋愛に関して遠ざかったいるので、かわいい独身女性を見ると、おばさん根性丸出しで、羽場さんの相手を見つけるプロジェクト「羽場プロジェクト」を思わず立ち上げてしまいました。この新しいプロジェクトの話し7割、岡野さんのアマミーナの話し3割という、意義ある一日を過ごしてしまいました(笑)。羽場さ〜ん。いい女もたくさんいるけど、いい男もたくさんいるのよ〜。待っててね。

さて左は、新潟は新津美術館で「少女マンガパワー展!(4/22-5/25/08)」が開催された時のゲストスピーカーが岡野玲子さん (4/26/08)。新津美術館は偉い!!!ずっと岡野さんにラブコールを送っていて、なかなかお会い出来なかった私は、息子をつれての追っかけで、奄美から再び新津へ。やっとお会い出来て、それもご主人の手塚真さんもいらして、うれしくてうれしくて、ミーハーですが、お願いして一緒に写真をパチリ。講演も素晴らしいもので、作品のインスピレーションから作品作りの様子まで、そしてなんと今習っていらっしゃるというベリーダンスの精神性まで披露してくださいましたよ。たぶん今まで、お会い出来なかったのは、たぶんこの日に会うためのものだったのね。

 左は、その岡野さんの講演の後の、打ち上げパーティの帰り。小雨が降る中、母である私は、雨に濡れる息子(10歳)のことも気にせずにほろ酔いかげんで歩きはじめたの。そんな時、真さんが、小さく「あっ!」とおっしゃって、息子海のところに駆け寄り、傘をさしかけてくださった。映画の一シーンのようで、ちょっと感激。その雰囲気が良くて、私は思わず写真を撮ってしまいました。うちの息子はちゃんとお礼を言ったのでしょうか?遅ればせながら「真さん、ありがとう。」(そんなことより、自分の息子の世話を!という声が聞こえてきそうだけど、、、こういう母に育てられているうちの息子は間違いなく、タフよ  ^_^!)

松本零士氏のアートを生み出す手!(Wed., 1/20/09)


今日は牧先生と松本先生のお宅へ作品返却へ。松本先生はいらっしゃれないとの最初のお話しだったが、都合がついたとかで、お会いすることができた。やったね。なぜここに松本先生が手を広げていらっしゃる写真を掲載しているのかというのは理由がちゃんとあるのです。私の友人である福島大学の芸術学部絵画の渡邊晃一氏が、長年著名人にお好きな手のポーズをしてもらって、その手を実際に特別の石膏でキャスティングして、それらを展示パフォーマンスするという展示会を続けているのですね。彼曰く、その人の手はその人の人生を映し出す鏡だそう。今回松本さんにお会いするという話しを偶然茶飲み話でしたところ、長年のファンという事で、ぜひにお願いしてくれということに。そこで私は作品返却プラス、松本さんへそのお願いをするというミッションを持って、牧/松本邸へお邪魔するということになったんですね。ありがたいことに、いらっしゃらないと聞いていた松本さんが、おいでになり、ずうずうしくも、お手を拝借と、松本さんにお好きは手のポーズをしてもらったところをパチリとなったというわけですね。しっかりとした厚みのある、そしてとてもチャーミングなお手でしたよ。(もちろんどさくさに紛れて、しっかり触りました。 ^_^)

実はこのお隣に牧先生もいらっしゃるのだけれど、私の写真はだめよだめよ、とおっしゃるので、残念ながら今回はパスです。でも許可を得て、ここに川崎市市民ミュージアムでの内覧会(2/13/08)での牧先生のトーク(ご本人より許可を得ての掲載です。@牧美也子)を掲載することができましたので、楽しんでくださいね。生声ですよ。さすがに一線で長年活躍されて来られた方の言葉には重みがあります。牧先生の作品の流れそのものが、本当に少女マンガの本道(少女&女性の願望を映す鏡)を表しているのだと思います。お二人同時に聞く、当時のお話しは楽しくて楽しくて、、、これはまたの機会にね。