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2011年3月26日土曜日

コロンキャンサー顛末記4:Colon Cancer Diary 4

3月24日にこのタイトルをアップして、何と既に4月の20日(日本時間)。実は日本の奄美でこれを書いている。手術を受けてから早一ヶ月あまり。もう遠い過去の出来事のよう。前回手術までの顛末を記しましたが、今日はその続きを。(写真はけいさんのお見舞い茶碗蒸し ^_^)

3月14日(月):病院にて手術&入院初日。テリサが7時45分に迎えに来てくれ、一緒にエンロー病院へ。8時。時間通り、手術着に着替え、手術準備室のようなところで手術台にのったまま順番を待つ。

9時ちょうど、手術台にのったまま手術室へ、のはずが、そのちょっと前、さらに待機部屋のようなところで今度は麻酔の準備。麻酔医がいろいろ質問(アレルギーはあるかどかなんとか)を、それに答えながら、、、麻酔を点滴のようなもので、、、ということろで、記憶はここでぷっつり切れている。

たぶん午後2時過ぎ。看護士らの遠い声、、、「手術は無事終わったわよ、起きて、大丈夫?」というような声で強制的に麻酔から覚めさせられる。ぼんやりとした頭の中、いろんな看護士が次々と名前と今日の担当は自分で、、、というように挨拶しているのが何となくわかる。ぼっーとした頭にはほとんど記憶に残らないよ〜。

夕方アイビー(点滴)で栄養をとって(とらされていて)、やたらトイレにいきたくなる(1~2時間おきくらい)。腹腔鏡手術とはいえ、切っているおなかが痛み、普通に寝返りをうてず、ベットから起きることができず、そのたびに呼び出しベルで看護士を呼び出し、トイレにつれていってもらうことに。それでも最初の看護士(君)は、大学で日本語をとっていたとかで、日本人である私にとても親切で嫌な顔ひとつせず、つきそってくれる(この後、たくさんの看護士がついてくれたのだけで、一番親切だったのが彼だった)。この日は一人で二人部屋を占領。(ジョンと海が見舞いにきてくれる。テリサも。)

3月15日(火):病院2日目。朝8時頃、執刀医Dr. Ludwigが様子を見にきてくれる。何の会話をしたのか記憶になし。この日の看護士から、点滴棒(?)を支えに、もう早病院の廊下を歩きながら回復に勤めるように致しましょう、、、うんぬんのアドバイスを受ける。うっこんなに痛いのに、冗談でしょう。(日本では絶対ありえない対応?)寝ている内に窓際におかれた花。恵子さんからのお見舞い。午後から淳代さんも。ジョンと海も、そしてテリサも毎日来てくれる。食事はまだほとんど液状。固形物なし。

その日の午後隣人到来。おばあさん。すごーい鼾に悩まされて眠れず。特に点滴替えのブザーの音に看護士は対応せず。もちろんおばあさんはその音に気付かず熟睡。堪えきれずにナースセンターに痛いおなかを引きずりながらどうにかしてくれと泣きつく。結局そのおばあさんをナースセンター近くの部屋に移すことで対応。これで眠れる、、、と思いきや、やはり点滴の影響でトイレが近く痛いお腹を押えつつトイレに数時間毎に通う夜を過ごすことに。

3月16日(水):3日目。お昼近くにDr.L登場。経過順調。午後ジョンと海が来て、一緒に廊下を散歩して運動。午後早く別の隣人到来。またまたおばあさん。転んで腰の骨を折って手術入院。昨日のおばあさんと違い比較的お元気。しかしである。点滴替えのブザーの音に、ナースコールのボタンがわからず「ヘルプーミー!」の連呼。急遽プライベートナースとなった私はナースセンターへ救いを求めること数度。この日の夕方からようやく点滴をはずしてもらった私は(トイレに頻繁に通う必要もなく)比較的自由に動けるようになったのがせめてもの救い。明日には絶対退院をお願いしようと誓った私。

3月17日(木):退院日。8時頃Dr.Lと相談。もう一日入院しても、、、のアドバイスに「ノーサンキュー」。許可を得て、その日の午後お昼を食べた後退院できるよう準備を進めることに。午前中シャワー室で体を洗い着替えをすませる。2時過ぎにジョンに迎えにきてもらって、3日ぶりの我が家へ。(写真は私の退院を祝って海がチョコレートケーキを。が、記念のカメラを向けると本人照れて自分で食している。サンクス海君!)

3月24日(木):Dr.Dとの退院後のアポ。経過すごぶる良好。摘出したガン細胞の精密検査の結果も転移全くなし。キモセラビーなどの術後治療もなし(だろう)とのこと。一月後4/27(水)に再度経過チェックのアポを。そしてポストトリートメントの専門医とのアポを4/29(金)に予約。これですべて終了となることを期して、これら日本から帰ってからの確認ということで。

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