この写真はちょうど私の卒業式の時のものだから、今から11年前、1998年の5月中旬。海が生まれて3ヶ月半ということになる。月日の経つ早さを思うとめまいがしそうだが、あの時の自分の生活を振り返ってみて、あのタイミングでよくすべて終了できたなと感嘆。いまだったら絶対できないことで、若さ(その時ですでに30代後半だったけど)と、海が生まれてくるまでに、すべて終了させなければという崖っぷちの気分に近かった。結果的には、それがモチベーションになって、終わらせることができたのだろう。
米国に来た(日本から見ると「行った」かな?)いきさつについては、原稿を美術教育ニュースで「思えば遠くへきたもんだ」というのをだいぶ前に書いたことがあるし、博士卒論についても、つい最近別の研究ブログ Visual Pop-culture blog(3/26付け)に書いたが、ここでは博士号取得のプロセスとその裏話も少し。
博士課程に入ってから卒論を書くまでには、米国でははっきりとした段階的プロセスがあって、私の出たイリノイ大学(University of Illinois at Urbana-Champaign)も同様。もちろん修士号終了後、博士課程に進むのだが、美術教育の場合、修士の資格の他に少なくとも公立学校で3年間の教師経験が必要ということになっている。とはいえ、教師経験以外の現場の経験、例えば美術館での仕事経験等、けっこう他の経験でその代替にもなっているようで、特に海外からの博士課程組にはそういうケースが多いような気がする。ちなみに私の場合は、日本人学校での教師歴5年(それも美術ではなくて、中学での国語専任と小学校の担任としての経験)と私立カソリックスクールでの美術教師歴4年(小学校1年〜中学2年)がそれを満たすということで、オッケーが出た。(結構いいかげんである ^_^)。ようは学校をストレートに学問だけして博士課程に進むのではなく、現場の経験が大切ということなのだという理屈なのだと私は解釈している。
1. Quality Examination: 博士課程のコースワーク終了後、いよいよ博士論文執筆に入るわけだが、その前にQualify Examination という、資格試験(博士論文執筆に入るだけの基礎知識を会得しているかどうかの確認試験)を受けなければいけない。これが第一関門で、論文試験である。結構状況によってその内容や方法が、(そして特に試験監督教授によって)異なるらしいので、私の場合はというと、二人の教授からそれぞれ、論文のタイトルを与えられ、それに回答する形で論文を1週間以内に作成してくるというものだった。あっそうそう博士課程に入る前に、美術教育関連の読んでおくべく本のリスト(約100冊)を与えられているので、基本的にはそのテストに入るまでに、これらの本を全部読んでおく必要があるということになる。(*うちの先生達は優しくて、本人の卒論方向に沿った質問をちゃんと考えて出してくれていて、これらの作成論文がその卒論作成にちゃんと役にたつように考えてくれている。感謝。そういうことで、この時集中してまとめた論文、特に描画や美意識の発達論の比較表などは、今でも結構役にたっている。)
2. Committee選択: そのテストにパスした後、今度は卒論を審査するコミッティーを選ぶことになる。全部で4人。その中に少なくとも一人は、美術教育専門以外から選ぶということになっている。が、私の場合、全く逆で、一人のみ美術教育から、他の三人は他の専門分野からお願いした。特に認知心理学と研究方法論の専門分野からお願いしたが、自分の研究の方向性を指導してもらうためなので、このコミッティーメンバーの選択は特に重要である。お願いしても、皆超多忙な教授陣なので、皆が皆引き受けてくれるとは限らない。私の場合はその美術教育からの一人(つまり私の卒論指導教授)と相談をして、良い組み合わせのメンバーを選択し、お願いした。結果はラッキー!(*この時、コミッティーメンバーの中が良いかどうか、少なくとも敵対関係にない人々を選ぶのが大切と先輩方から教えてもらったので、この辺も確認。)
3. Preliminarily Examination: この後、本格的に卒論の執筆を始めることになる。最初の3−4章(研究の方法論のところまで)まで書き上げたところで、Preliminarily Examination というのを受けなくてはいけない。これが第二の関門。コミッティーメンバーの教授陣に書き上げた論文を送付し、内容を確認してもらい、メンバーを全員収集しての口頭試問テストとなる。そこで研究の方向性や方法論が妥当であるかどうかの厳しいチェックが入る。たくさんの修正案が出され、それに対して更新論文を執筆しなおさなればいけない。へたをすれば、ここで論文の完全変更ややりなおしを命ぜられることにもなる。(そうなのここで結構足踏みをするケースも少なからずある。)私の場合は、それぞれの提案や修正案が提示されただけで、そのまま論文を書き進めて良いという許可をもらうことができ、ひとまずほっと。そして、ここで最終ディフェンス(最終試問テスト)の日程を来年2月ということに。
それがだ。ここからが問題。まずい妊娠してしまったのだ。出産予定日が1/25/98。すぐに指導教官(アドバイザー)のティナに連絡。最初はちょっとあきれたように、「しょうがないわね」。の一言にあと、「私も覚えがあるから、とにかく中止にしないで、口頭試験の日にちを少し前倒しにできるかどうかの確認をコミッティーメンバーにしましょう。その後はもう運だから。おなかの赤ちゃんによく頼んでおいてね。」と笑顔。(実はご本人も修士号の時に同様の経験をしているとのこと ^_^)
それからはもうなんとも長ーい(そして他人には退屈にすぎない)話しになるので、ここでは省略。とにかくこの時も学生と美術教師の二足のわらじをはいていたので、仕事と論文執筆の両方を日に日に大きくなるおなかと格闘しながら、やっておりましたね。とにかく試験の前、2ヶ月前までには余裕を持ってコミッティーメンバーに卒論の完全版を送付。ということで、遅くとも年内12月初めまでに全員に送付。試験にそなえてもらわなければいけない。大変大変できるかなあ、、、
ひとつエピソード。試問試験一日前(1/23/98)の病院での最終検診の時、血圧が異常にあがってしまい、看護婦さんから至急入院をすすめられたのだが、明日試験なのでそれまでは待っててほしいと懇願すると、「あなた赤ちゃんと試験とどっちが大切なの?!」ときつくしかられることに。でもでも私は思わず悲痛な声で答えてしまいました。「赤ちゃんはもちろん大切。でもこの子はまだおなかの中に9ヶ月しかいないけど、私はこの研究に5年使ったんです。」看護婦さんはあきれたように、私をにらみつけていたけど、そばにいた私の担当の先生(お医者さん)が、「じゃあ一時間後にもう一度検査して、血圧が通常値までさがったらオッケー、高かったら至急入院てことでどう?」と。結果は正常値に。ほっ。看護婦さんの「試験が終わって、すぐに病院に入院よ。わかってますね」という言葉を背中に聞きながら、明日の準備のため、自宅へ。
4. Defense(最終試問試験): ディフェンス当日(1/24/98)、はちきれんばかりに大きくふくらんだおなかで試験にのぞみ、1時間の発表、そして1時間の質疑応答。計約2時間の試験。妊婦に対して同情して少し優しくしてくれるかなあという下心がなかったとは言えないけど、、、その期待は完全に裏切られ、たくさんの質問が飛んできましたよ。試験が終わり、隣の部屋でコミッテーの話し合いを待つ事15分。Dr. Tina Thompson の 「Congratulations! Dr. Toku」の笑顔にテストにパスしたことを知ったのでした。その時の彼女の言葉を私は一生忘れないと思う。「You are not my student anymore, but my colleague from now on. (これであなたはもう私の生徒ではないの。今日から美術教育を指導する同僚の一人よ。」おもわず涙が出ました。その時、私の試験に何人かの学生も参考にしたいと見学していたけれど、その何人かももらい泣きで「よかったよかった。」とハグ(抱きしめて)してくれました。みんな元気かなあ。
もうこういうこともありましたね、というくらいはるか昔のことになってしまいましたが、昨日のことのように思い出します。(予定日より早く生まれたらどうしようと心配していましたが、結果は、居心地が良くなってしまったうちの息子は翌日の予定日にも出てこず、2日遅れで1/27に約10時間かかって出てきました。)
5. Paper Deposit(最終版卒論提出): その後、また試問試験の際、指導を受けた修正事項を元に、卒論の最終修正をし、大学出版指定の書式へ変更、決められた日までに提出。というプロセス。期限までに提出できない場合は、卒業式に出れないとあって、4月の締め切りまでの2ヶ月間で、これまた必死に仕上げました。
6. Graduation(卒業式): その後、晴れて卒業式に出れることになった私は、海と一緒にこうやって笑顔で写真にうつることができました。なんていうことはないただのスナップ写真の一枚なのですが、私にとってはその裏に博士号取得への長ーい道のりを思い起こしてくれる記念すべき一枚でもあります。とにかくこれが今の私の原点 (^_^)。その息子、海ももう11歳。(本人はもちろんなんにも覚えてない。)
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