母の島ゆむた(奄美の方言)を久しぶりに聞いた。奄美大島本島のすぐ南に位置するさらに小さな島、加計呂麻(カケロマ)の西の端「芝」集落の言葉である。「ハピネス浦上」というホームのレストランにお勤めの叶(かのう)さんとの会話の様子がこのビデオ。叶さんご自身は「薩川」のご出身で、そこは母が小中学校を通った土地でもある。
私は奄美大島の中心地で唯一の「市」でもある旧名瀬市(現奄美市)生まれ/育ちで「島ゆむた(方言)」が話せない。田舎の中の都会っこだったのだ(笑)。といっても東京弁と属に言われる日本の共通語で育った訳ではなく、「名瀬言葉」を使っていた。これは、奄美大島諸島の共通語と言われるもので、現在テレビのドラマとかで話されている奄美の方言は実はこれ。奄美大島諸島には、島々によって異なる方言(島ゆむた)が存在するが、奄美大島本島の中でさえ、その地域ごとに異なる方言は多種に及ぶ。ということで、奄美諸島全体に通じる奄美共通語とも言える「名瀬言葉」が生まれたわけである。
私は奄美大島の中心地で唯一の「市」でもある旧名瀬市(現奄美市)生まれ/育ちで「島ゆむた(方言)」が話せない。田舎の中の都会っこだったのだ(笑)。といっても東京弁と属に言われる日本の共通語で育った訳ではなく、「名瀬言葉」を使っていた。これは、奄美大島諸島の共通語と言われるもので、現在テレビのドラマとかで話されている奄美の方言は実はこれ。奄美大島諸島には、島々によって異なる方言(島ゆむた)が存在するが、奄美大島本島の中でさえ、その地域ごとに異なる方言は多種に及ぶ。ということで、奄美諸島全体に通じる奄美共通語とも言える「名瀬言葉」が生まれたわけである。
奄美各地のそれぞれ方言の中には、日本の古語や音韻がそのまままだ残っているそうで、そこが音楽(島唄)や演芸(踊り)についての研究(民族学)のみならず、言語学の宝庫ともいわれる由縁でもある。残念な事に、昭和40年代頃から、皆で共通語をモットーにした共通語統一運動が教育の場で広がっていて、子ども達が方言を話すたびに罰金というような懲罰も起きていたくらいで、その影響か名瀬出身の私のようなものはもとより、それぞれの出身地においてさえ奄美各地の方言を話せる人が少なくなっている。現在は地域活性化と評し、地域の文化を推進する運動が教育の場でも広がりつつあり、「総合教育」の中で、ふるさと奄美大島の再発見をと方言を再評価する動きも出てきているとのこと。この運動が大きく広がる事を祈るばかりである。
さて母の言葉である。久しぶりの母のカケロマ方言は優雅で美しい。芝が瀬戸内(せとうち)という穏やかな内海に面しているせいか、ゆるやかで耳に優しい言葉でもある。カケロマには他の多くの土地のように、平家の落ち武者伝説が残っていて、関連の史跡もいくつか存在し、平家によって伝えられたという「諸純(しょどん)しばや」(国指定重要無形民俗文化財)もある。
ちなみに父の田舎の小湊(現在は奄美市の一部)の方言は荒い。小湊はもともと漁師村で、母に言わせると太平洋の荒海に面していて、その波音にまけないように話しているので、芝の言葉と違い荒くなってしまっているとの事。かなり母のバイアス(偏見)がかかっている解釈のような気もするが、あたらずとも遠からずというところかもしれない。
これまた余談だが、奄美(あまみ:古くは「海見」とも記された時代もある)は、遣唐使(7c)の頃より、日本の歴史の中にすでに存在するそうで、海のシルクロード(奄美では「道の島」と呼んでいる)の貿易中継地であったとのこと。琉球や島津の圧政支配下、悲惨な歴史をたどったことで知られているが、それでも奄美の人々はそれなりの(精神的に)豊かな生活をいとなんでいたのではないだろうか。そうでないとこんなユニークで豊かな文化は生まれなかったような気がする。そう信じたいというこれまた奄美出身の私自身のバイアスかもしれない。母の事は笑えない。私も同類である(笑)。
さて母の言葉である。久しぶりの母のカケロマ方言は優雅で美しい。芝が瀬戸内(せとうち)という穏やかな内海に面しているせいか、ゆるやかで耳に優しい言葉でもある。カケロマには他の多くの土地のように、平家の落ち武者伝説が残っていて、関連の史跡もいくつか存在し、平家によって伝えられたという「諸純(しょどん)しばや」(国指定重要無形民俗文化財)もある。
ちなみに父の田舎の小湊(現在は奄美市の一部)の方言は荒い。小湊はもともと漁師村で、母に言わせると太平洋の荒海に面していて、その波音にまけないように話しているので、芝の言葉と違い荒くなってしまっているとの事。かなり母のバイアス(偏見)がかかっている解釈のような気もするが、あたらずとも遠からずというところかもしれない。
これまた余談だが、奄美(あまみ:古くは「海見」とも記された時代もある)は、遣唐使(7c)の頃より、日本の歴史の中にすでに存在するそうで、海のシルクロード(奄美では「道の島」と呼んでいる)の貿易中継地であったとのこと。琉球や島津の圧政支配下、悲惨な歴史をたどったことで知られているが、それでも奄美の人々はそれなりの(精神的に)豊かな生活をいとなんでいたのではないだろうか。そうでないとこんなユニークで豊かな文化は生まれなかったような気がする。そう信じたいというこれまた奄美出身の私自身のバイアスかもしれない。母の事は笑えない。私も同類である(笑)。
2 件のコメント:
初めまして。母からこのブログを教えてもらいました。雅美さんのお母さんと話をしているのは私の母です。そして、私も「雅美」といいます^^不思議な御縁を感じますね。
「シマゆむた」大好きです!やはり島人なのでしょうね。私は私が大切だ、残したいと思うシマの良いところを残していきたいと思っています。最近気付いたのですが、それは「シマゆむた」に集約されるなぁと...。あえて、方言とは言わないようにします。シマの言葉は日本語の方言というより、一つの言語だと思うからです。シマグチで話される数々の言葉や、表現はシマの気候や風土、文化、自然が織りなした産物です。(シマ唄もしかり)日本語に訳すとなんかしっくりこないのは、そういうところにあるのでしょう。シマの言葉に「なんて美しいのだろう」ってうっとりすることも、「なんて滑稽なんだろう」って思わず笑っちゃうこともあります。そして、シマからシマゆむたがなくなったら、シマじゃなくなるような気がして、一体自分がシマの未来に何を残せるんだろうって不安になるのです。できることなら「生きたシマゆむた」を残したいです。きっと、シマゆむたを理解し、話せるのは母の年代が最後だろうと思っています。どうしたら「生きたシマゆむた」を残せるのか、これが今の私の課題です。この課題を少しでも乗り越えられたら、自然や文化、親、先祖を大切に大切にしていってくれるような気がするのです。
と、長くなってしまいました。いつかお会いしたいですね^^寒い日が続いています。体に気をつけてお過ごしください。
お母様にはお世話になりました。ありがとうございます。その通りですね。島口を話せる人がだんだん少なくなって来ているのは残念な事ですが、今の時代また島口の再評価が高まって、いろいろな動きが出て来ているのはうれしいことです。いつかお会い出来る事を楽しみにしています。
徳 雅美
コメントを投稿